2019年3月
砂場で遊ぶ和の視線の先に、1歳くらいの男の子がいました。
彼は、和が使っているダンプカーとショベルカーに向かって度々やってきました。
その度にお母さんが「お兄ちゃんのだからねー」と言いながら連れ戻すことを繰り返していました。
和は、彼がどうしたいのかを知ろうとしているかのように、じっと見ています。
ふと、和が水を汲もうと立ち上がって砂場を出たら、早速彼がやってきました。
和がチラッとそちらに目を向けるので、 「貸してあげたら?」と声をかけると、 「じゃあ、水汲んでいる間ならいいよ。」
そう言って出かけて行きました。
彼は、砂を入れたり、車を動かしたり、じっくりとそのものの動きを試しています。
そこへ和が、意気揚々と帰ってきました。
少し遠目に彼を見て、しばらく考えた後、私にこう囁きました。
「使いたいみたいだからさ、ちょっとあっちで遊んでこよう!」
そう言って、和はジャングルジムに登り、「あの子、連れてきてさ、登らせてあげたら喜ぶんじゃないかな。 お兄ちゃんみたいにやりたいっていうかもしれないよ」
先日はうまく登れなかったところまでグイッと登り、てっぺんからニッコリ顔を出し、そしてひと言。
「かわいいよねぇ。 ああいうかわいい子、和くんの家にもいればいいのにねぇ」
自分の遊びを貫くというよりも、小さな人にかっこよさを見てほしいと思ったり、その遊びを小さな人と共有したりすることに喜びを感じるようになったのですね。
(川辺)
いつを境にして、人は自分を「大きい人」と思うのだろうか。
とても小さな子が、自分が遊んでいたものを何度も欲しがっては連れ戻されるのを見る時間の中で。
小さな子のお母さんの必死の説得を繰り返し聞く中で。
自分が場を離れたあとに、嬉々としてその物で遊んでいる様子を見たときに。
そんないろいろが混ざり合う中で「あの子に使わせてあげよう」という思いが浮かび、そっと場を離れた。
そして、ジャングルジムの高いところに昇る。
その行為もまた象徴的である。
この時、和くんは、自分を「とても大きい」と実感していたのだろう。
「小さな子ども」に、かっての自分を重ねながら。
大きいと小さいは、こんな風にいつも隣り合わせになっている。
(宮里)