2018年11月
ある公共施設の一角に、おもしろい形のウレタン遊具がたくさんありました。
私たちは、あまりこういう場を利用する機会がないので、和が周りの子がいる中でどのように遊ぶのか、興味津々でした。
和は、穴に長いのを挿したり、重ねたり、大きい部品を運んだりと、とにかく身体中を使って運んでは組み立てて…、長い時間かけて作っていました。
近くで遊んでいる子どもたちは、なんとなくお互いに相手が使っているかどうかを察しているようで、和の作品には触れないでいてくれていました。和は、勢いよく、どんどん運び、どんどん重ねていくので、ずいぶん大きくなっていきました。
和が夢中になっている間に、新たなメンバーがやってきて数分。
和が部品を求めてその場を離れたすきに、あっという間に和の山が壊されました。
「あ!」と言う私、「へへへ」と嬉しそうな彼、そしてそこへやってきた和……。
和はしばらく相手の顔を見て、崩れたものを確かめ、うつむいて、また顔を上げて、私の元へやってきました。
そして、げんこつを私の胸にゆっくりと押し付け、しばらく堪えていましたが、「帰る」と言って、出てきました。
ここでは、壊して欲しくなかったとか、それは僕のだ、とか、そういうのは多分通じないな、ということを察したのかもしれません。そして、勢いがパッと途絶えたことで、もうつくることへの意欲も消えたのかもしれません。
怒りやぶつけようのない気持ちを、この大勢の前では出さず、そして私にぶつけまくってきていた今までとは違い、静かに、静かにおさめていく様子に驚きました。
帰り道に、もう一度「こわされたの、いやだった」と言いました。
「ほんとにね、あんなに大きかったものね」というと、パーっと走って、その後はもう、何も言いませんでした。
きっと、保育園では、また少し違う様子なのでしょうね。和なりに、家と保育園と公共の場、それぞれその場での過ごし方、表し方を調整しているのかな、と感じました。
(川辺)
怒りをはっきりと表す、というのは、心を許しているからこそなのかもしれない、という一言が心に浮かんだ。
大事に作っていたものを他の人に断りもなく使われて、大事に構築したものがただのパーツにされて、ぼうぜんと立ち尽くす。
でも、その怒りをぶつける相手のことを自分は何もしらない。
そう思ったときに、怒りを自分の手の平に握りしめて立ち尽くす。
それは本能的な行為なのかもしれないし、社会的な行為なのかもしれない。
こうして大きくなる。
大きくなるっていうことは、本当に、いっぱいの体験を包んでいるんだなと思う。
(宮里)